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	佐久間盛政【極】の考察と育成方針 へのコメント	</title>
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	<description>【戦国ixaの攻略ブログ】プレイ日記も交えながら毎日更新中！</description>
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		原田俊明 より		</title>
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		<dc:creator><![CDATA[原田俊明]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 03 Jul 2020 14:47:45 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[SECRET: 0&lt;br/&gt;PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456&lt;br/&gt;『柴田合戦記』&lt;br/&gt;・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己（秀吉の祐筆）&lt;br/&gt;・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。&lt;br/&gt;・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。&lt;br/&gt;・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという意気込みである。&lt;br/&gt;・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。&lt;br/&gt;『太閤記』&lt;br/&gt;・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵（前田家の家臣）&lt;br/&gt;・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。&lt;br/&gt;・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。&lt;br/&gt;・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。&lt;br/&gt;・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。&lt;br/&gt;・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。&lt;br/&gt;・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ～～」&lt;br/&gt;・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。&lt;br/&gt;『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。&lt;br/&gt;敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。&lt;br/&gt;『渡辺勘兵衛記』&lt;br/&gt;・撤退戦で奇襲部隊は善戦。&lt;br/&gt;・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに２千ばかりの敵軍が布陣していたので、勝政勢は（友軍を頼みにして）そこで踏みとどまった。&lt;br/&gt;・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。&lt;br/&gt;・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。&lt;br/&gt;・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。&lt;br/&gt;『一柳家記』&lt;br/&gt;・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前３時頃に大岩山へ攻めかかる。&lt;br/&gt;・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前４時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。&lt;br/&gt;・北国軍（奇襲部隊か勝政勢）が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。&lt;br/&gt;・やがて盛政勢（勝政勢？）は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。&lt;br/&gt;・盛政は敗北した軍勢を収容し、１万５千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。&lt;br/&gt;・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。&lt;br/&gt;・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。&lt;br/&gt;・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに（北国軍と羽柴軍が）接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。&lt;br/&gt;・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。&lt;br/&gt;・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。&lt;br/&gt;『江州余吾庄合戦覚書』&lt;br/&gt;・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。&lt;br/&gt;・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。&lt;br/&gt;・だが（撤退を支援するために配置された）後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。&lt;br/&gt;『佐久間軍記』&lt;br/&gt;・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。&lt;br/&gt;・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。&lt;br/&gt;・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。&lt;br/&gt;・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。&lt;br/&gt;・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。&lt;br/&gt;・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になったと記述されている。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;結論&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;各史料で合戦の様子には差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。&lt;br/&gt;そこに戦後の事実として、&lt;br/&gt;・秀吉は前田家に加賀北部の２郡を加増した。&lt;br/&gt;ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。&lt;br/&gt;そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。&lt;br/&gt;また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。&lt;br/&gt;こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。&lt;br/&gt;ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。&lt;br/&gt;『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。&lt;br/&gt;加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。&lt;br/&gt;なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。&lt;br/&gt;また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。&lt;br/&gt;賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。&lt;br/&gt;ゆえに敗因は前田利家・利長父子の敵前逃亡だったことが裏付けられるのである。&lt;br/&gt;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>SECRET: 0<br />PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456<br />『柴田合戦記』<br />・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己（秀吉の祐筆）<br />・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。<br />・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。<br />・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという意気込みである。<br />・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。<br />『太閤記』<br />・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵（前田家の家臣）<br />・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。<br />・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。<br />・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。<br />・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。<br />・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。<br />・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ～～」<br />・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。<br />『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。<br />敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。<br />『渡辺勘兵衛記』<br />・撤退戦で奇襲部隊は善戦。<br />・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに２千ばかりの敵軍が布陣していたので、勝政勢は（友軍を頼みにして）そこで踏みとどまった。<br />・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。<br />・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。<br />・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。<br />『一柳家記』<br />・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前３時頃に大岩山へ攻めかかる。<br />・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前４時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。<br />・北国軍（奇襲部隊か勝政勢）が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。<br />・やがて盛政勢（勝政勢？）は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。<br />・盛政は敗北した軍勢を収容し、１万５千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。<br />・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。<br />・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。<br />・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに（北国軍と羽柴軍が）接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。<br />・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。<br />・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。<br />『江州余吾庄合戦覚書』<br />・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。<br />・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。<br />・だが（撤退を支援するために配置された）後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。<br />『佐久間軍記』<br />・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。<br />・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。<br />・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。<br />・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。<br />・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。<br />・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になったと記述されている。</p>
<p>結論</p>
<p>各史料で合戦の様子には差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。<br />そこに戦後の事実として、<br />・秀吉は前田家に加賀北部の２郡を加増した。<br />ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。<br />そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。<br />また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。<br />こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。<br />ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。<br />『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。<br />加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。<br />なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。<br />また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。<br />賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。<br />ゆえに敗因は前田利家・利長父子の敵前逃亡だったことが裏付けられるのである。</p>
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